太田宇之助
管理事務所では、現在、太田宇之助氏の生涯をまとめる作業をしています。太田宇之助氏に関わる資料を集めていますので、ご協力ください。
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和暦 | 年齢 | 西暦 | 太田宇之助とその頃の出来事 |
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明治24年 | 0 | 1891 | 兵庫県姫路市に生まれる(父:太田善次郎、母・たき、兄弟は9人) |
明治26年 | 2 | 1893 | 毛沢東生まれる |
明治27年 | 3 | 1894 | 日清戦争始まる |
明治35年 | 11 | 1902 | 父善次郎病死 兄弟姉妹は親類の家に分散。 |
明治38年 | 14 | 1905 | 母たき病死。 政治結社、中国同盟会が孫文・胡漢民・汪兆銘・黄興らによって8月20日に東京で結成。 |
明治39年 | 15 | 1906 | 親類の援助で姫路中学校に。このころ、クラスメートの妹で将来の妻「栄子」と出会う。 |
明治41年 | 17 | 1908 | 神戸へ(従姉のいる小宮酒店に丁稚奉公) |
明治42年 | 18 | 1909 | 関西学院普通科3年に転入 |
明治43年 | 19 | 1910 | 関西学院3年修了後退学し京都へ 京都四中入学 |
明治44年 | 20 | 1911 | 京都三高入試合格(生涯の喜び)後藤新平より匿名で学費援助を受ける。 武昌起義(ぶしょうきぎ、1911年10月10日に中国の武昌で起きた兵士たちの反乱。辛亥革命の幕開けとなる事件。)中国全土で毛沢東ら多くの学生がさまざまな革命運動に参加し始める。 |
明治45年 大正元年 |
21 | 1912 | 結核性乾性肋膜炎を発病。京都三高を病気退学し故郷に戻り療養 孫文を臨時大総統として中華民国設立・清朝消滅 |
大正2年 | 22 | 1913 | 体調が回復し、神戸に。市立図書館に勤務。公園で偶然に妻となる栄子と再会。袁世凱が正式に大統領に就任。 |
大正3年 | 23 | 1914 | 赤痢で隔離病棟へ |
大正4年 | 24 | 1915 | 東京へ(徳富蘆花の思出の記に感動)受験して早稲田大学政治経済科2年に編入。国木田修二(国木田独歩の弟)宅に居候 |
大正5年 | 25 | 1916 | 早稲田3年で王統一の中華革命軍海軍総司令秘書となり、原宿の孫文の宅に連絡掛として出入り。久原房之助(日立グループの祖)が孫文に援助した資金を運ぶ。上海へ渡り、政府軍の艦船の乗っ取りなど、孫文の革命に加わるが、失敗し日本に戻る。他の同士も亡命。 |
大正6年 | 26 | 1917 | 吐血し伊東で3か月闘病生活。6月に早稲田大学を卒業。 |
大正6年7月 | 26 | 1917 | 大阪朝日新聞入社(編集局長鳥居素川に、自分の書いた「支那革命行」を提出し、入社が決まる。入社3ヶ月後に、北京通信部勤務に配属)後藤新平(内大臣)を訪ね、学費援助の礼と、中国における日本人記者の心得をうかがう。七語絶句の自筆の詩を手渡される。(太田記念館所蔵品) |
大正7年 | 27 | 1918 | 栄子と結婚。媒酌人は中国革命家の王統一 |
大正8年4月 | 28 | 1919 | 上海特派員 栄子とともに上海に住む |
大正9年 | 29 | 1920 | 長男 新生(あらお)誕生 |
大正10年 | 30 | 1921 | 中国共産党第1回大会(中京一大会議) |
大正11年 | 31 | 1922 | 長女 曄子誕生 ソビエト社会主義共和国連邦設立 |
大正12年4月 | 32 | 1923 | 東京朝日新聞支那部次長 |
大正13年 | 33 | 1924 | 朝日新聞北京特派員として2度目の北京勤務。 |
大正14年1月 | 34 | 1925 | 孫文の客死をつらい思いで現地より速報。 広東に国民政府成立(汪兆銘首席) |
昭和3年3月 | 37 | 1928 | 朝日新聞東京本社に転勤 横浜鶴見の花月園に住む。その後モスクワ、ロンドン(8か月)、ニューヨークなどに1年2カ月ほど滞在(1929年4月まで)し帰国。 |
昭和4年 | 38 | 1929 | 2度目の上海勤務(朝日新聞上海支局設立)。一等書記官重光葵と家族付き合い。世界大恐慌がニューヨークの株価暴落で始まる |
昭和7年 | 41 | 1932 | 上海事変。上海の抗日運動が激しくなり、支局が被弾。東京へ転勤。満州建国(太田は新満州国へは一度も行かず「傀儡国を視るに忍びなかった」とのこと |
昭和8年 | 42 | 1934 | 久我山に分譲地を購入し自宅を新築。このころから、食糧不足の東京で苦労する中国人留学生を自宅で支援。 |
昭和12年 | 46 | 1937 | 著書「新支那の誕生」を出版。 盧溝橋事件。日中戦争が始まる。日本との戦闘の前面に立った蒋介石国民政府は共産党容認し、一緒に日本軍と戦う(第2次国共合作)。以降の共産化への道筋が開かれた。 |
昭和15年7月 | 49 | 1940 | 中国派遣軍総司令部の嘱託となる |
昭和16年7月 | 50 | 1941 | 朝日新聞本社中支特派員 |
昭和18年4月 | 52 | 1943 | 南京国民政府経済顧問(朝日新聞退社) |
昭和20年8月 | 54 | 1945 | 軍部に徴税改革を依頼するため日本へ帰国。戦争激化で中国に戻れず、東京で終戦を迎える。中国に残した財産をすべて失う。 終戦。蒋介石と毛沢東会談。この後、中国内戦が再開する。 |
昭和21年 | 55 | 1946 | 第22回衆議院議員選挙に社会党より公認を受けるが出馬せず。徳富蘆花夫人の新居の手配などに尽力。 |
昭和22年 | 56 | 1947 | 東京の中華日報の顧問となる |
昭和23年 | 57 | 1948 | 第23回衆議院議員選挙に兵庫4区に社会党より出馬。200票差で次点落選。 |
昭和24年 | 58 | 1949 | 中華日報が読売新聞傘下の内外タイムズとなる。 中華人民共和国設立(国民党政府は台湾に移る) |
昭和44年3月 | 78 | 1969 | 内外タイムス社退社 |
昭和61年9月2日 | 94 | 1986 | 没 |